働き方が多様化するなか、在職中の給与に退職金相当額を追加して支払う「前払い退職金制度」を設ける企業が増えてきました。
働く人にとっては、給与の手取り額が増加するメリットを実感できるシステムです。
退職金を分割払いすることにより、企業のキャッシュ流出をコントロールする手段としても注目されています。この記事では、前払い退職金制度の概要や、企業と従業員のメリット・デメリットなどを解説します。
前払い退職金制度とは?
「前払い退職金制度」は、在職中の給与・賞与に退職金相当額を上乗せして支払うシステムです。
1998年に松下電器産業(現在のパナソニック)が導入した「全額給与支払い型社員制度」が、退職金前払い制度の始まりとされています。
退職給付制度を設ける企業のうち、前払い退職金制度がある企業は約5%です。
人事評価に応じた賃金改定と、退職給付引当金の削減といった企業財務の健全化とセットで、前払い退職金制度の導入が進むことが今後予想されます。
人生設計の多様化に対応するため、前払い退職金を確定拠出年金(iDecoなど)の掛金に充当できる仕組みを設ける企業もみられます。
前払い退職金制度の企業にとってのメリット
前払い退職金制度を導入することで、企業にもたらされる財務面・人事面のメリットについて紹介します。
退職給付引当金の準備が必要なくなる
給与・賞与に退職金相当額を加算して支払うことで、退職給付引当金を計上する必要がなくなる点は、企業財務上のメリットです。
退職給付引当金は従業員への債務という考え方から、貸借対照表では負債の部(固定負債)に表記されます。そのため、退職給付引当金が多い場合に、銀行融資や取引先の与信審査で負債が多いと判断される場面があるようです。
一方、前払い退職金は月例賃金の一部なので、債務ではなく必要経費(損金)として取り扱われます。
賃金支払後の現金は、貸借対照表の資産の部(流動資産)に表記されますが、流動資産が多いほど企業の支払能力が高いと評価されるのが一般的です。
退職者が発生したときの現金流出リスクを軽減する効果も生まれるため、資金繰り計画も立てやすくなるでしょう。
求人広告で月額賃金を高く見せられる
従業員を募集する際に退職金相当額を上乗せした月給を提示して、同業他社より好待遇であることをアピールすることも可能です。
好待遇を期待して転職活動を行う人が多い中、優れた人材を獲得するチャンスも広がるでしょう。
前払い退職金制度と確定拠出年金との選択制を採用する企業も多く、福利厚生面も充実していると求職者に印象づけることもできます。
従業員のライフプランを尊重して長期勤続につなげるために、入社時には前払い退職金制度と確定拠出年金制度の説明を十分に行っておきたいものです。
前払い退職金制度の企業にとってのデメリット
前払い退職金制度の導入を検討するにあたっては、法定福利費の増加や不祥事の抑止力低下といったデメリットを考慮に入れる必要があります。
社会保険料の負担が増加する
前払い退職金制度を導入する場合、支払額全額が社会保険料の算定基礎となることが財務上のデメリットとなり得ます。在職中の支払であることから、労働の対価として支払われる報酬であると健康保険法で決められているからです。
毎月の社会保険料は、一定の金額幅で区分された標準報酬月額によって決定されます。
例えば、標準報酬(月給)が23万円~25万円の場合、標準報酬月額は24万円です。標準報酬に幅があることから、前払い退職金の金額によっては社会保険料の負担が増えないケースがあります。
一方、前払い退職金を賞与として支払う場合は、支給額に比例した社会保険料を負担することになります。
1年間で支払う前払い退職金の額を決めた上で、月給・賞与それぞれの配分を試算することが、社会保険料の負担を最小限に留めるポイントです。
不祥事が発覚した場合でも退職金を没収できない
退職後に退職金が支払われる(従来の)制度では、懲戒解雇者に対する退職金の減額・不支給規程が設けられているのが一般的です。
退職後に懲戒解雇に相当する不祥事が発覚した場合にも適用されるため、不祥事の抑止力として機能する一面を持っています。
一方、前払い退職金制度では支払済の退職金の返還を求めることができません。労働の対価として、月給・賞与と組み合わせた賃金として支払われているからです。
懲戒解雇が最も重い処分であることを考えると、最終給与の減額(減給)を併科することも難しいでしょう。したがって、従来の制度と比較すると、前払い退職金制度では不祥事への抑止力が弱いのがデメリットです。
前払い退職金制度の従業員にとってのメリット
退職金不支給のリスクを避けられるなど、前払い退職金制度は従業員に経済的なメリットをもたらすでしょう。
毎月の給与手取り額が増える
前払い退職金制度により月々の給与手取り額が増えることは、従業員にとっては大きなメリットです。
結婚・子育てに向けて貯蓄したり、老後に備えてiDeco(個人型確定拠出年金)に加入したりするなど、前払いを受けたお金を幅広く活用できます。
キャリアアップの勉強に投資して、仕事で優れた成果を目指すプランも考えられます。人事評価の結果に応じて昇給・昇格が実現できれば、モチベーションも高まるでしょう。
社会保険料の負担は増えるデメリットが伴いますが、在職中に病気・ケガで休んだ際の傷病手当金の額や厚生年金の受給額に反映されることを考えると、最終的にメリットが上回ると考えられます。
退職金減額のリスクを回避できる
退職金の支給は法律で義務づけられていないため、企業の業績や経営戦略より制度が改廃される可能性があります。
2020年に入り、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で倒産する企業が増えていることから、従業員にとっては退職金引き下げのリスクが高まっているのが現状です。
退職金の前払いを受けることで、退職金が減額されるリスクを自ら回避できるメリットが生まれます。仮に退職金制度が見直されたとしても、前払いを受けた退職金に影響が及ばないことも安心材料です。
前払い退職金制度の従業員にとってのデメリット
従来の退職金制度と比較すると、前払い退職金制度では従業員の経済的負担が増加する点がデメリットとなります。
所得税・住民税の優遇措置を受けられない
前払い退職金制度を利用する場合、退職金相当額も賃金(給与所得)として全額が所得税・住民税の課税対象となります。
そのため、退職後に一時金として退職金を受け取る場合と比べて税金の負担が重くなることが、制度を利用する上のデメリットです。
住民税の税率は一律10%ですが、所得税の税率は、所得金額に応じて7段階の税率に分かれているため、前払い退職金の金額によっては高い税率が適用される可能性がある点にも留意が必要です。
ちなみに、一時金として退職金を受け取る場合には、退職所得として勤続年数に応じた所得控除を受けられる上、他の所得と独立して税額が計算(分離課税)される優遇措置がとられています。
勤続年数 | 退職所得控除額 |
20年以下 | 40万円×勤続年数 ※最低控除額は80万円 |
20年超 | 800万円+70万円×(勤続年数-20年) |
退職金の受取総額が減る
退職金の前払いを受けた場合は、退職後に一括払いを受ける場合と比べて退職金の受取総額が減るデメリットも伴います。
企業では将来の退職金支払いに向けて、定期預金や金融商品などを通じて資産運用を行っているのが一般的です。
退職後に退職金を受け取る場合は、資産運用益が加算された額を受け取れる一方、前払い退職金制度では資産運用をする期間が存在しないため、資産運用益が加算されません。
もっとも、中小企業退職金共済(中退共)での予定運用利回りが1.0%である現状では、年間数千円程度の減少と割り切ることもできるでしょう。
前払い退職金と確定拠出年金の違い
前払い退職金制度と組み合わせて導入されることが多い、確定拠出年金についても解説します。
確定拠出年金とは
確定拠出年金(DC)は、拠出した掛金の運用結果に応じて給付額が変動する私的年金制度の一つです。
企業が掛金を負担する企業型DCと、個人が掛金を負担する個人型DC(通称「iDeco」)の2種類に分かれており、公的年金の上乗せ保障部分として位置づけられています。
企業独自の年金や個人年金保険と異なり、積み立てた資産を転職先や他の運用機関に持ち運べる(ポータビリティ)制度が確立されているのが特徴です。
2017年からは会社員以外の人もiDecoへ加入できるようになり、所得控除による節税と老後への資産形成を両立できることから注目度を集めています。
前払い退職金とiDecoの比較
前払い退職金とiDecoとでは、資産運用の選択肢の広さと運用益の課税有無に違いがみられます。
前払い退職金 | iDeco | |
資産運用の選択肢 | 仮想通貨等を含め自由に選択可能 | 運営機関が取り扱う商品の中から選択 |
資産運用をしない選択 | できる | できない |
運用益 | 課税 | 非課税 |
iDecoは年金制度であることから、元本と運用益(給付額)を受け取れる時期は60歳以降に限られます。
一方、前払い退職金は支給を受けたその日から自由に利用できるため、ライフスタイルの変化に合わせてマネープランを立てやすいのが特徴です。
給与制度を整備する際は人事評価制度の見直しもお忘れなく
前払い退職金制度を導入することで、人件費の総額を増やさずに賃金水準の引き上げを実現可能です。
退職一時金の支払を各月に分散することで、企業の資金繰りを安定させる効果も生まれるでしょう。毎月の社会保険料負担は増えるものの、従業員にとっては将来の年金受給額が増えるメリットになり得るため、制度導入にあたってのデメリットは限定的といえます。
退職金制度の改定に合わせて人事評価制度を見直し、成果に応じた賃金配分ルールを含む給与制度を構築してはいかがでしょうか。
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